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フォトスタジオ森白汀の、親子3代でシャッターを切り続けた85年の歴史と、いまに繋がる節目の物語【後編】


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2023年10月に拠点を栄町から早岐3丁目に移し、さらに地域や時代に密着した新しいチャレンジを続ける老舗フォトスタジオ森白汀(もりはくてい)。“まちの写真館”として85年の歴史を紡ぐ節目となる最終営業日のレポートに加え、今回の記事では親子3代の歴史、新店舗に向けた社長の想いを記録する。


あなたが記事を読み終える頃には、やっぱり、家族写真を撮りたくなるかもしれない。



昭和から築き上げられてきた基盤

創業者の写真
フォトスタジオ森白汀創業者の森 繁さん。2代目の森 信正さん撮影。(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

江戸時代、日本有数の貿易港としての役割を担っていた長崎は写真の発祥地とも言われている。時代を追うごとに多くの日本人写真師が誕生し、技術の発展や継承も盛んに行われた。


その流れは佐世保市にも届き多くの写真館が軒を連ねていた。森白汀が看板を掲げたのは、85年前の1938(昭和13)年。


初代の森繁(もり しげる)さんは3代目社長・暢邦(のぶくに)さんの祖父にあたる。芸術や建築、インテリアに造詣が深く、流行にとても敏感な人物だったそうだ。


煙草をくゆらせるポーズがとても渋いけど、その表情はとても優しそう。


「白汀(はくてい)」の名前は初代が写真家として名乗るペンネームのようなもので、松尾芭蕉のような俳号にあたるものだそうだ。


「潮見郵便局の斜め前ぐらいにあった建物なんです。佐世保空襲で焼けて、その後は本島町のアソカ幼稚園の交差点寄りあたりに移転しました」


暢邦さんに当時の写真を見せていただくと、昭和天皇のパレードが建物の前を通っておりものすごく賑わっていたようすが伺えた。

過去のスタジオの写真
少し洋風な印象の建物で屋号のフォントがかわいい。(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

佐世保空襲で焼失後、潮見町から本島町へ移転したスタジオ。


その後、初代はより多くの客足を見込み、当時九州一と言われた老舗百貨店「佐世保玉屋」の向かいをロックオン。1949(昭和24)年に栄町への移転を果たした。

過去のスタジオの写真
1949(昭和24)年に移転した新スタジオ(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

外壁や窓、観葉植物に至るまで洋風の佇まいがとてもおしゃれだ。インテリアに造詣の深かった森繁さんの好みが大いに反映されているという。まだ4〇3アーケードに屋根がなかった時代。

過去のスタジオの写真
戦後のスタジオ外観(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

戦後、米海軍基地がおかれたまちということもあり、水兵さんたちも免許証やパスポート、家族写真などで日常的に利用することもあった。これぞ佐世保ならではの光景だ。


当時のフォトスタジオといえば、写真撮影に加えカメラやフィルム、関連機材の販売も行っていた。仕入れは初代が行い、よく海外に買い付けに行っていたという。

過去のスタジオの写真
1975(昭和50)年に新社屋も完成!(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

過去のスタジオの写真
平成時代の店舗前(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

平成の頃。フイルムカメラや機材、レンズのほか、TDKカセットテープや双眼鏡なども販売。平成といえば「写ルンです」の現像だってお任せあれです。


初代の先見の明は大当たり。結婚式場を備えた百貨店の佐世保玉屋をはじめ、明治から創業し伊藤博文をはじめ数々の政治家軍人や文化人らも愛したホテル万松楼やJAさせぼホール、玉姫殿など、結婚式場の多かった市街地周辺でのニーズは凄まじく、それに伴い従業員の数も20数名体制。


2代目以降と続いていく森白汀を支える支柱の1つとなった。


「僕が子どもの頃は、年に300~500件もの撮影をこなしていたようです。結婚式で婚礼写真や家族写真。お子さまが産まれれば出産祝いやお宮参り、七五三に成人式と、ライフイベントに応じて次々と依頼が舞い込んでくる時代でした。長崎新聞社さんにお声掛けいただき、金婚式(結婚50周年)を迎えたご夫婦に写真をプレゼントする企画をさせていただいてるんですが、『結婚式はここで撮りました』とおっしゃる方もかなり多く、本当に有難い限りです」


優しくて、センスあふれるおじいちゃん

スタジオ上部のオブジェ写真
建物上部にあるオブジェはフイルムを表現したもので初代のアイデア。

初代の繁さんの人柄について暢邦さんに聞いてみると、意外にも、ほとんど写真の話をしたことがないという。


「スタジオで写真を撮っているところを見たこともなくて、それが心残りではありますね。プライベートで友人か誰かを撮影している姿は記憶に残っています」


アートなど芸術鑑賞や絵画、インテリアにも造詣が深く、休みの日には趣味の油絵に打ち込んだり、馴染みの家具屋へ顔を出したりしていたそうだ。

「祖父にはよく遊んでもらいました。島瀬公園で駆け回り、お茶は玉屋で…みたいな。ガスライトとか。良い生活をさせてもらってました。僕のファッションは、当時“おぼっちゃまファッション”と呼ばれていたサスペンダーでしたもんね。思えばあのときが一番良い時代だったかもしれない(笑)」と暢邦さんは笑顔を滲ませる。


孫から見た初代森白汀は、才色兼備なとても優しいおじいちゃんだった。


ショーウィンドウに写真が飾られる特別感

過去のスタジオの写真
森白汀では、ショーウインドウは約50年前の新社屋完成時から登場。ウインドウに飾られた花嫁さんの写真に足を止めて見入ってしまう人々の姿が目に浮かぶ。(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

ところで、自分の写真がショーウインドウに飾られる経験をしたことはあるだろうか。


わたしはないが、小学生の頃、とあるフォトスタジオのショーウインドウにクラスメイトの七五三の写真が飾られていて「すごい!有名人じゃん(そして、その友達であるわたしもすごくない!?)」とミーハーな興奮を抱いたのを覚えている。


自分の顔が公の場に登場し、それが日常の一部となっていく感覚は他では味わえない特別感にあふれたものだろう。


そうでなくても、例えば、自宅でパートナーや家族から撮ってもらった何気ない日常の写真が額装されていた場合でも、くすぐったくはあるが小さな喜びを感じる人もいるはずだ。


人生の輝きや、生きているみずみずしい瞬間を切り取った写真。そこに写る人々はみんな主役なのだ。


「飾られたら、とにかく周りの人たちに『見に行ってね!』と言いたくて言いたくて(笑)。私の母も飾ってもらったんですよ」と話すのは、社長夫人の内海梨恵子さん。


「当時は携帯電話もインターネットもない時代でしたから、写真を見る手段はお店まで行く、でしたもんね。現在でこそ個人のプライバシーに配慮する形で被写体の方に許可を得てから展示していますが、昔はそれこそ自由でした。でも、『子どもの頃飾ってもらったことがある』というのは当人だけじゃなく周りの人も覚えていたりして、それがステータスになったお客様もいらっしゃったようです」


父と息子、それぞれの「写真」を追い求め

2代目の写真
フォトスタジオ森白汀2代目の森 信正さん。(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

昭和が幕を閉じ平成の時代を迎えた1989(昭和64)年に、暢邦さんの父・信正さんが2代目に就任。


信正さんは東京育ち。初代の繁さんの娘さん(暢邦さんの母)のもとへ婿入りし、写真館の跡を継いだ。


「父(信正さん)方の祖父は、佐世保の海上自衛隊の初代総監だったんです。それで佐世保との縁も深かったんでしょうね。余談ですが、自衛隊の方々の会に行って祖父の話をするとすごく恐縮されてしまいます」


生粋のシティボーイで、もともと写真を生業としていた信正さんは、良縁を得て自身のスタジオを持つに至った。


『九州写真師大会』で文部大臣賞を受賞。そのスタイルは初代とはまた違った味わいを持つ。いわば、コマーシャルにも通用する都会的な洗練された作品を生み出す“技術師”であり“先生”で、世界的にその名が知られるほどアーティスト的人気を博した存在となったのだ。


「(父と違って)僕は、産まれた瞬間からレールの上に乗ってきているので。可愛がられているし、(長男のため)跡を継いでくれるだろうと。福岡の大学で写真を学び、卒業後そのまま修行に出ました。福岡の師匠のもとで学んだことは佐世保のスタジオとは全然違うんです。自分が思い切り写真をやれる。やっと楽しくなってきたと実感したのはそこからです」


とても意外だった。親子3代で継いできたと聞くと一子相伝のような響きもするが、森白汀に関しては「それぞれにシャッターを切ってきた」というのがなんだかしっくりくる。


「初代も2代目も、ビジネスとしての写真の考え方がまったく違ったと思うので、それを超えるというより、僕の思うお客さんへのアプローチをやるだけです。同じではなく私のやり方で。」


お父さん(2代目)を越えたい気持ちはありますか?と尋ねると、「あまり思わないです」と即答。


信正さんから愛のムチが入ることはなかったのだろうか。


「僕がまだ若い時にめっちゃ喧嘩したことはありました(笑)。だけど技術的なことではないです。写真は教えてもらったことがほぼありませんでしたから。教えてほしくなかったといえば嘘になりますけど、2代目の撮るコマーシャル向けの写真とは感覚が全然違っていて。それぞれの代で、それぞれのやり方を貫いてきたからこそ今に繋がっていると感じています」


ふと、関係ないが、ここで【父】というワードが出てきたので、「写真撮影のとき、お父さんはなかなか笑ってくれない」案件についてふれてみた。


「だいたいお父さん、笑わないんです。でも、それを笑わせることを頑張りたいというか」


初代と2代目は、どうやって父たちを笑わせてきたのだろうか。そこでようやく、大変失礼ながら、あのにこやかに(汗だくで)進んでいった現場の主が暢邦さんであったことを思い出した。


わたしは、あの表情の硬い父が、うっすら笑ってくれたのがとても嬉しかったし、今こうして思い出しても、やっぱり嬉しいのだ。


お客さんに喜んでもらえることを第一に。

カメラを構える暢邦さんの写真
3代目の森 暢邦さん:被写体の魅力を引き出すコミュニケーションもカメラマンの仕事の1つ。その人の魅力を見極め、どのような演出やポーズで写真を撮るのかを超高速で脳内会議しているという。

26歳で佐世保に帰郷し、11年後となる2012年に3代目社長に就任した暢邦さん。戻ってきてからは福岡の師匠からの学びも徐々に実践に取り入れつつ、自己のスタイルを確立してきた。


「第一は、お客さんが喜んでくれるために自分は何ができるかということです。先生とは呼ばれたくないですし、そこはお客様のご判断で。あくまで謙虚に努めて、毎日の勉強を大切に。今日より明日、明日より明後日と写真がうまくなるはずなので。ゴールはありませんので、技術の良し悪しはありますが、あまり縛られたくはないですね」


「お金をもらってお客さんのために撮るものは、お客さんの時間だから。お客さんがほしいものと、自分が撮りたいものがイコールになることが一番大事。そこをはき違えないようにしないといけないなと思いながら写真を撮ってます」


現在営業中の新スタジオは、これまでのスタジオの設計とは違い、自然光をふんだんに取り入れた仕様だ。窓からはエメラルドグリーンの早岐瀬戸が見え、まるで別荘にいるかのような感覚に。


「だからこそ、この新しいスタジオは僕が撮りたいように撮れるスタジオなんです。お客さんにも、アトラクション的に愉しんでいただけるような環境や仕組みで。」

早岐スタジオの写真
扉の向こうから見えるのは、川ではなく、瀬戸です。(画像提供:フォトスタジオ森白汀)
早岐スタジオの写真
アレンジ自由な和のスペースも。(画像提供:フォトスタジオ森白汀)
早岐スタジオの写真
「新郎、新婦の入場です!」となってもおかしくない荘厳なアンティーク扉は海の向こうからやってきました。これくぐるだけで気分上がりますね。
夫婦の写真
3代目社長の内海暢邦さんと、社長夫人の内海梨恵子さん。梨恵子さんは株式会社ヒューマングループの代表取締役でもある。森白汀とのさまざまなコラボが今後楽しみ!
早岐スタジオの写真
ちなみにこの壁、一面がホワイトボード。自由にマーカーでメッセージや絵が書き込めるアレンジ自在なスペースなのだ!(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

「これは旧スタジオ(栄町)から持ってきたものなんですよ」と見せてくれたのは、初代がコレクションしていたアンティーク雑貨や家具だった。

スタジオの写真
屋号と共に受け継がれていくものたち。(画像提供:フォトスタジオ森白汀)

新スタジオは立地も雰囲気もガラリと変貌を遂げ、これからは3代目の暢邦さんのカラーで85周年の歴史をさらに紡いでいく。


「創業がやっぱり一番大変だったと思います。「この場所に店舗を構えたい!」という強い思いで出してるからですね。で、大変だった戦後を乗り越えて地盤を築き上げて、それから2代目が生まれも違う場所からやってきて、人脈を作りながら仕事をさらに飛躍させて雇用も増やして。時代は大きく変わりましたけど、なんとか私の代にバトンタッチしてくれて。祖父や父には感謝が尽きません」


また、老舗ならではのこんなエピソードも。


「『おばあちゃんは創業者に撮ってもらいました、娘さんは2代目に。お孫さんはあなた(3代目)に撮ってほしいです』と来られたお客さん。お客さんと私たちが互いに世代を感じたときはとても感慨深く、生きることに対しての喜びや感動があります。また、金婚式のときに『これと同じように撮ってほしい』と、結婚式の写真を持ってこられて、そこで創業者の写真や私の父の写真とかを初めて見ることができたりして。写真の台紙はだいたいオリジナルなんですけど、やっぱこだわり派だから、時代によってデザインも結構変えてるんですよ。お客さんの写真を通して、お店の歴史を勉強させていただいている。この仕事は幸いなことに良いことが多いですね。明と暗でいえば確実に明なので。そういうのが一番嬉しいですね」


お店と顧客、互いに影響を受け合いながら伴走してきた。


「祖母は子どもが7人も居たものだから、前に後ろに3人ぐらい抱えてフィルム現像してたって言ってました。当時はそんなに従業員がいるわけではないし。バイタリティがすごいなと」


それぞれに信じる道を貫きながら、しかし、多くの家族に幸せな思い出を残すというフォトスタジオの使命は果たしつつ、そのシャッターはどれも重みを持って切られ続けてきた。


その裏には、そんな彼らを支えた家族がいる。


色々と大変なこともあるけれど、互いにエールを送りあいながら並んで歩く関係って良いなと思う。暢邦さんと梨恵子さん家族を見ていてもそう思う。


そうだ、また家族写真を撮ってみようか。年齢でちょっと顔の筋肉が緩んだであろう父を、今度はみんなで大笑いさせてやるのだ。

新スタジオの外観
早岐3丁目のスタジオ(画像提供:フォトスタジオ森白汀)
 

【店舗情報】

森白汀

Photo Studio MORI HAKUTEI

〒859-3215 長崎県佐世保市早岐3-11-11-2F

公式インスタグラム:https://www.instagram.com/morihakutei

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